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大阪高等裁判所 昭和44年(う)1280号 判決

被告人 金寧珍

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人林田崇作成の控訴趣意書記載のとおりであるから、これを引用する。

控訴趣意第一点(事実誤認の主張)について。

論旨は、原判示第四の(一)、(二)の各事実について、被告人は本件交通事故発生当時、高度の飲酒酩酊状態にあつて知覚が麻痺していたため事故の発生に気付かなかつたもので、道路交通法七二条一項前段、後段の各違反罪の犯意がないことに帰するから、いずれも無罪である、というのである。

よつて案ずるに、本件は、被告人が原判示日時ごろ、無免許でしかも酒酔いのため正常な運転ができないおそれがある状態にありながら普通貨物自動車を運転し、交通整理の行なわれていない大阪市生野区中川町一丁目七〇番地先付近の交差点に差しかかつた際、折から同所を東から西へ横断中の歩行者があつたのに、前方左右の注視を欠いてこれを看過し、漫然時速約一〇キロメートルの速度で同所を右折して南東に向つて進行しようとしたことにより、自車右前部バツクミラー付近を右歩行者に接触させて同人を路上に転倒させ、よつて原判示のような傷害を負わせたにかかわらず、直ちに車両の運転を停止して同人を救護することもなく右事故現場から走り去つたという事案であるが、被告人は、当時右事故発生の事実を認識しなかったと主張するのである。

しかしながら、原審において取調べた関係各証拠を検討してみるのに、被告人は、各捜査官の取調べに対して、その当初の段階においては酒酔いのため本件事故の認識が全くなかつた旨の供述をしていたものの、司法警察職員に対する昭和四四年三月二〇日付供述調書に至つて、「事故現場でハンドルを右に切つて曲るとき車内で自分の身体が左方によろけて倒れかかりそうになりました。このとき倒れかかる前であつたか倒れかかつたときであつたかよく覚えていませんがとにかく自動車が何かに当つたようなシヨツクがあつたことはわかつていました。しかし自動車のどの付近であつたか等ということはわからずまた何に当つたかということ等はわかりませんでしたが私は私なりに何か石にでもあたつたのかなあという程度に思つていました。」旨少くとも何かに自車が当つた程度の認識はあつたことを具体的に供述し、さらに、検察官に対する供述調書においては、「私は本当に悪かつたと思います。車の右手の方で人に触れたように思いました。私は無免許で酒に酔つていましたので怖しくなり逃げました。出来るだけ罪を軽くして貰う積りで色々つまらぬ事を申上げ申訳ないと思つています。」旨被告人が本件事故の発生について未必的な犯意があつたことを自認する内容の供述をするに至つたことが窺えるのであるが、右被告人の検察官に対する供述は、被告人が原審公判廷(第三回)において検察官の取調べに際して述べたことはまちがいがない旨改めてそれを裏付けるような供述をしていることおよび司法警察職員作成の現場写真二葉等によつて明らかなとおり、本件被害者と接触したものと認められる被告人車の右前部バツクミラーは接触のシヨツクで内側にかなり曲るほどの損傷をきたしているのであるが、同バツクミラーは運転席の右側至近箇所に設けられている関係上運転者として右のような部位における相当の接触事実に全く気がつかないことなど通常はあり得ないと思料されることさらに本件事故現場は平坦な舗装道路であること等から推してみても、十分措信するに足るものと認められる。もつとも、原判決挙示の関係証拠によれば、被告人は、当時約三合の日本酒を飲んだが体調の悪さも手伝つて相当に酩酊し、本件事故直後パトカーに追跡された場合にもジグザグ運転を行なつて容易に停車せず、停車後においては右パトカーの警察官の質問に対してぶつぶつ意味の通じないことをしやべるのみでいつこう要領を得ず、顔色は青ざめ目は充血し、手もとはふるえ足もともふらつく等の様子を示し、化学的判定の結果でも呼気一リツトル中に一・五ミリグラム以上のアルコール分の含有が検出される等の状況が認められ、これによると被告人の当時の酩酊の度合はかなり高度のものであつたということができるのであるが、他面、被告人が本件事故現場の交差点で右折を図つたというのが自宅に帰る進路の間違いに気付いて引き返すつもりであつたこと、パトカーに追跡されていることをサイレンの音で気付き運転中にふり返つて眺めたりしたこと等いまだ正常な知覚も残つていたことを窺わせる事情もあつて、結局は、右被告人の酩酊の程度は本件の接触事実を全く自覚させない程に高度のものであつたとは認められず、これをもつていまだ前記被告人の検察官に対する供述の信憑性を覆えすには足らない。被告人の司法警察職員に対する各供述調書中、右検察官に対する供述と抵触する供述部分は信用することができない。してみると、被告人は本件事故発生当時自車の右前部付近が人の接触したかも知れない程度の認識はあつたものというべく、そうだとすれば当然人身事故発生の予測もつく道理であるから、これをもつて道路交通法七二条一項前段、後段の各違反罪における未必的な犯意と認めるに十分である。右犯意の存在を肯認している原判決の認定に所論主張のような事実誤認の違法は認められない。本論旨は理由がない。

控訴趣意第二点(法令の適用の誤りの主張)について。

論旨は、原判示第四の(二)の事実につき、被告人は本件事故発生の直後その事故現場と同視すべき近接場所において現行犯として逮捕されたものであつて、法令所定の事項をもよりの警察署の警察官に報告する時間的余裕とてなく、しかも本件事故の発生は警察官が直ちに了知していた場合であるから、既に道路交通法七二条一項後段所定の報告をなすべき客観的必要が存在せず、いずれの点からみるも本件において右規定の違反罪は成立しない、というものである。

よつて案ずるに、原判決挙示の関係証拠によると、被告人が本件交通事故を惹起した際、たまたまその後方七・八〇メートルを所轄の生野警察署所属のパトカーが追従していて右事故の模様を乗員の警察官が現認していたため、右警察官は、直ちに右パトカーのサイレンを吹鳴し赤照灯をまわしながら、逃走する被告人車を追跡し、本件事故現場の南東方約二〇〇メートル付近でいつたん追いついて停車を命じたが、これに応じないので、さらに約二〇〇メートル併進しながら赤照電灯を打ち振り大声で「止まれ止まれ」などと制止した挙句、本件事故現場の南東約四五〇メートル地点でようやく停車させたのであるが、右停車後右パトカーの警察官が被告人にひき逃げおよび酒酔い運転の容疑について質問したのに対し、被告人は泥酔に近い様子を示してさつぱり要領を得ず、本件交通事故に関してはほとんど応答、説明することがないまま、結局その場で酒酔い運転等の容疑で現行犯逮捕されるに至つた経緯を認めることができる。

ところで、道路交通法七二条一項後段の規定は、同条一項前段の交通事故があつた場合、右事故の発生に密接な関係がある加害車両の運転者等において、現場に警察官がいるときは、まず右警察官に対し、警察官が現場にいないときは、直ちにもよりの警察署の警察官に対し所定の事故内容等を報告すべきことを義務づけ、右もよりの警察署には派出所又は駐在所を含む、としているのであるが、同規定の法意は、交通事故の発生があつたときには、交通警察行政を管掌する警察官に逸早く右事故の発生と内容等を知らせ、被害者の救護および交通秩序の回復などにつき時宜を得た適切な措置をとらせることを目的とするものであつて、その目的を効果的に達成するため、右事故の発生に密接な関係を有し、かつその事情にも通じている筈の当該加害車両の運転者等をして、事故発生後できるだけ早い機会に警察官に右事故に関する必要事項の報告をなすよう一般的に義務づけたものと解されるのであるが、右の法意に照らすと、同条所定の事故内容等を報告すべき相手方である「もよりの警察署(派出所又は駐在所を含む)の警察官」とは、必ずしも右のような物的施設内に在所する警察官のみに限る必要はなく、報告義務者がたまたま事故発生の直後に事故現場から手近かな場所において出会つた、巡回警ら等の職務執行中の警察官のごときは、少くとも「もよりの派出所又は駐在所の警察官」と同視しうる実質を有するといえるから、当該警察官は、右「もよりの警察署の警察官」に準ずる立場にある点において、これら警察官に対して所定の事故内容等を報告した報告義務者は、右「もよりの警察署の警察官」(事故現場と極めて近接した場所においては現場の警察官とみなされる場合もあろう)に対して道路交通法七二条一項後段の報告義務を尽したものと解される反面、もし、交通事故発生の直後に右のような警察官に出会い同警察官に対して容易に右事故内容等の報告を行ないうる状況にありながら、これを行なわなかつた報告義務者については、同人が他のもよりの警察署の警察官に対して右事故報告を行なう意思があつたとは認められない場合において、その時点で同規定における報告義務違反罪が成立すると解するのが相当である。

これを本件についてみるに、前記認定の各事実によれば被告人は車両運転中前記交差点において本件交通事故を惹起し、負傷者の存在を未必的にせよ認識しながら、自己の無免許ならびに酒酔い運転が発覚することを怖れ、直ちに車両の運転を停止して被害者を救護する措置もとらないまま、右事故現場からの逃走を図る途中、たまたま所轄警察署のパトカーの警察官の現認によつて追跡され、右事故現場から約四五〇メートル南東付近で停車させられたうえ、右パトカーの乗員である警察官から右事故の件について尋ねられたにもかかわらず、何らの応答、説明も行なわないまま酒酔い運転等の容疑によつて現行犯逮捕されるに至つたというものであつて、この場合、右パトカーの乗員である警察官は、前説示における「もよりの警察署の警察官」に準ずる立場の警察官とみなすべく、したがって、本件交通事故の加害車両の運転手である被告人としては、少くとも、右警察官から停車を求められ本件交通事故についての質問がなされた機会には進んで所定の事故内容等の報告を行なうべきであつたのにこれをなした形跡はなく、しかも、前記逃走の動機、態様にかんがみると、被告人が当時他のもよりの警察署の警察官に事故内容等の報告をなす意思があつたとは到底認めることはできないのであるから、結局、被告人については、前記パトカーの乗員たる警察官の質問に応じないままに逮捕されるに至つたその時点において道路交通法七二条一項後段の報告義務違反が既遂に達したものと認定するべきである。

なお、所論は、右パトカーの警察官は既に本件交通事故の発生を了知していたので被告人において改めて報告する必要がない旨主張するのであるけれども、なるほど本件の場合、右警察官はたまたま後方の近距離から本件事故発生の模様を現認したことで右事故の内容および被告人が何ら救護措置をとらないまま逃走したことを知つているのであるから、被害者の救護もしくは交通秩序回復等のため改めて被告人からの報告を徴すべき具体的必要がなかつたことはまちがいないが、前説示のとおり、道路交通法七二条一項後段所定の報告義務というのは、前示の法意に基づいて自動車運転者等に課せられた一般的な負担と解されるのであつて、個々具体的な場合に応じて一々その報告の必要があるかを検討すべきものでなく、本件におけるごとく、たまたま事故現場もしくはもよりの警察署等の警察官が当該報告義務者からの報告以外の方法、経路を通じて既に法が定める事故内容等の事項を了知していたとしても、それによつて右報告義務者が当然にその報告義務を免れるものではない。所論主張の事情は前記報告義務違反罪の成否に何ら消長をきたすものでない。結局、被告人に対して原判示第四の(二)の事実の罪責を肯認している原判決には所論主張のような法令適用の誤りの違法はなく、本論旨は理由がない。

控訴趣意第三点(量刑不当の主張)について。

論旨は、本件につき被告人に対して懲役四月の実刑を科した原判決の量刑は不当に重過ぎる、というのである。

よつて、所論にかんがみ、記録を精査して案ずるに、本件各犯行の罪質、態様等すなわち、本件は、被告人が自己の体調もわきまえないで相当量の酒を飲みほとんど泥酔に近く酩酊したうえで、運転資格もないのに深夜勤務先の新車トラツクを勝手に持ち出して運転し、結局は本件人身事故を惹起したばかりかそのまま現場からの逃走を図つて、負傷者に対する必要な救護措置もとらずまた所定の事故報告もなさなかつたという事案であつて、近時世人の非難するところのいわゆる交通三悪を兼備している態様のものとして犯情悪質と認めざるを得ないことに徴すれば、他方、被害者の傷害の程度が比較的軽微で後遺症とて認められぬこと、被害者との間には円満に示談が成立してその弁償金も支払済みであること、被害者自身は被告人を宥恕して寛刑を期待していること、被告人に格別の前科はなく、また本件の犯行を除いては日ごろの生活態度に非難されるような点もないことその他所論主張の被告人に有利な諸事情を検討してみても、いまだ本件について刑の執行を猶予しなければならないほどの情状があるとは思料されず、被告人を懲役四月の実刑に処した原判決の量刑が不当に重過ぎるとも考えられない。本論旨も理由がない。

よつて、刑事訴訟法三九六条により主文のとおり判決する。

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